銀座の歴史
銀貨鋳造所が名前の由来
江戸時代以前、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には、「日比谷入江」という浅瀬の海が広がっており、現在の銀座付近は「江戸前島」という砂が堆積した半島となっていた。
1603(慶長8)年に江戸幕府を開いた徳川家康は全国の大名に普請を命じ、江戸の街の大改造を実施、開府の翌年の1604(慶長9)年には、「日比谷入江」の埋立て地及び「江戸前島」を通る形で東海道が日本橋まで延伸された。
銀座の地名の由来である「銀座役所」は、江戸期の幕府の銀貨鋳造所で、1612(慶長17)年に、駿府から江戸の京橋の南に移転された。この時、既に日本橋にあった「金座役所」周辺が両替町と呼ばれていたことから、「銀座役所」周辺は新両替町と呼ばれるようになったという。
1801(享和元)年に「銀座役所」は蛎殻町(現・日本橋人形町)に移転されたが、移転後も”銀座”が通称の地名として残り、それが今日まで使用され続けることとなる。
銀座には、京間六十間(約120m)四方の正方形の町割りが整備され、その中に五間(約10m)の街屋敷が並んでいた。現在でも銀座はこの町割りの名残が残っているのが特徴で、
ペンシルビルとも呼ばれる細長いビルが多いのは、この町割りを基にした敷地に建てられているためだ。
西洋を思わせる煉瓦街が誕生
東海道延伸後、銀座一帯には恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったが、1872(明治5)年の「銀座大火」によって大部分が焼失してしまった。
その後、明治政府は「道路幅の拡大を中心とする街路整備計画」と「煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築」の二本柱からなる都市改造に着手。明治政府のお雇い外国人である土木技術者、トーマス・ジェームス・ウォートルスの設計によって、耐火構造で国内初の西洋風の街並みとなる煉瓦街が建設された。
新橋~横浜間に日本初の鉄道ができたのも1872(明治5)年のことで、「新橋」駅に近い銀座には、洋食屋、パン屋、鞄屋、牛鍋屋、時計商、西洋家具店、洋服店など、西欧からの輸入商品や新しい商品を扱う商人たちが次々と店を開くようになる。
煉瓦家屋の2階はバルコニーが張り出し、下は歩廊(アーケード)となっていたが、この空間がショーウィンドウとして利用されるようになり、のちの「銀ぶら」にもつながる、散策しながらショッピングを楽しむ街へ発展するきっかけとなった。
その後銀座の街には、ガス灯の設置、鉄道馬車の開通、西洋料理店の開店などが続き、銀座は文明開化を代表する街として発展していった。
また、銀座は情報の発信地としても役割も担っていた。明治期には100を超える新聞社が集まり、写真館、雑誌社、印刷所、広告会社などの進出もあり、一帯は一大情報発信地となっていた。
明治時代後半になると、勸工場(現在の百貨店のような施設)ができはじめ、1902(明治35)年頃には銀座通りに7軒の勸工場があった。このころには銀座には多くの買い物客が集まるようになっていたが、ショッピングだけではなく、最先端のお店が集まる銀座を歩くこと自体をステータスに感じる人も増えていた。大正時代の初期には、銀座をぶらぶら歩き回る「銀ぶら」という言葉も生まれ、「銀座=憧れの街」という認識が広く知れ渡ることになる。
広辞苑で「銀ぶら」の意味を調べると「東京の銀座通りをぶらぶら散歩すること」とあるが、一方で、「銀座でブラジルコーヒーを飲むこと」とする説もある。これは、当時の銀座に日本初のカフェといわれる「カフェープランタン」をはじめ、「カフェーライオン」、「カフェーパウリスタ」など多くのカフェも開店しており、美術家や文学者の社交の場となったいた。洋画家の黒田清輝、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎などの名だたる文化人が常連に名を連ねたことも、この説が生まれたことに影響しているのかもしれない。
さらに、「大正デモクラシー」以降、モダンガールやモダンボーイと呼ばれる、伝統にとらわれない若者も現れるようになった。モダンガールとモダンボーイは「モガ」「モボ」の愛称で呼ばれ、銀座で流行の最先端を行く人々しての象徴として、メディアや広告によって全国的に広まっていった。
東京を代表するショッピングタウンに
1923(大正12)年に発生した「関東大震災」により、銀座の煉瓦街は倒壊と火災によりほぼ全滅。「銀座大火」に続き、銀座の街は二度目の大損害を受けた。
政府は、震災の翌日より復興への議論を開始、その後「帝都復興事業」が始まり、土地区画整理や幹線道路の新設・拡張、河川・運河の改修、架橋などが行われた。
銀座周辺では、晴海通りの拡幅、昭和通りの建設、震災復興小学校の建設、震災復興橋梁の架橋などの復興事業が行われたほか、銀座通り沿道の商店も精力的に復興に取り組み賑わいを取り戻し、1930(昭和5)年には新たな銀座の街が概ね完成した。
震災からの復興へ歩き出した銀座には、数多くの百貨店の進出も続いた。1924(大正13)年に「松坂屋」が開店すると、その後も「松屋」や「三越」などが次々と開店。
東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の開通により交通利便性も向上したことから、さらに多くの買い物客で賑わう街となった。
1945(昭和20)年に太平洋戦争が終戦すると、「服部時計店」や「松屋」などは連合国占領軍に接収され、PX(米軍専用の売店)として利用された。
一方で、銀座の商店街の人々も、街に賑わいを取り戻そうと、自ら復興計画をたて、1946(昭和21)年4月には「銀座復興祭」を開催したのだった。
銀座通りには米軍相手の衣服や食べ物などを売る露店が増加。夜にはアセチレンの電灯がともり、独特の雰囲気を醸し出していた。
1952(昭和27)年には接収されていた施設が返還され、本格的な復興が始まることになる。
1957(昭和32)年に丸ノ内線「西銀座」駅(現・銀座駅)、1963(昭和38)年に都営浅草線「東銀座」駅、1964(昭和39)年に日比谷線「銀座」駅が次々と開業、1967(昭和42)年には、モータリゼーションの発展に伴い、都民の主要な交通手段として利用されてきた都電銀座線が廃止されることになった。
都電の廃止とあわせて、建設省は銀座通りの大改修を計画。電柱や電線などを地中化し、幅を広げた歩道には、都電の敷石に使われていた御影石を転用して御影石舗装とした。
昭和中期ころには戦後すぐにたてられた木造建築が次々とビルへと建て替えられ、建物の大型化も進んでいった。
復興によって生まれ変わった銀座には、多くの若者がまた集まるようになっていた。1960年代には大勢の若者がみゆき通りに集まったことから「みゆき族」などの言葉も生まれ、再度流行発信の街として注目を集めるように。1970(昭和45)年には歩行者天国も始まり、ファミリー層の姿も増え、老若男女が集まる憧れの街としての地位を確固たるものにしていた。
大衆の街から高級な大人の街へ
流行の最先端をいっていた銀座だが、東京の市街地の拡大に伴い、西部の新宿や渋谷といったターミナル駅が発展していくにつれ、若者などが集う大衆的な繁華街の中心は次第にそちらに移っていく。
そうした時代の流れの中で、銀座は「高級志向の大人の街」としてのポジションを築いていくことになる。それに従い、高級志向の商品を取り扱う高級百貨店や、海外高級ブランドショップなど、一流企業なども増えていった。
1990年代にはブルガリやシャネルなど海外ブランドが数多く出店。世界でも有数の高級ブランド街となった。
銀座は江戸時代に整備された町割に、建築基準法によって独特の街並みを築いていた。建築物の高さは31m以内に制限され、この規制により銀座は制限内ギリギリの建物が立ち並ぶ、パリを思わせる街並みとなっていた。
1963(昭和38)年の建築基準法改正によって、建物の規制が高さから容積率に変わると、銀座の建築物の多くが不適格建築物となってしまったため、建て替えができず建物の老朽化していってしまった。
そこで、中央区と銀座通連合会が議論を重ね、1998(平成10)年に「銀座ルール」を策定。一定の条件を満たした建築物は道路の幅に応じて56m(工作物を入れて66m)の高さまで建築が可能となった。その結果、多くの建物の建て替えが行われ、街の更新が進んでいった。
たとえば、銀座の象徴的な風景である銀座四丁目交差点にある1932(昭和7)年建設の「銀座和光」や1930(昭和5)年建設の「銀座三越本館」、1934(昭和9)年建設の「銀座ライオンビル」など、建築基準法改正前に建設された建物は高さが31m以内に抑えられているが、改正後に建設された、「銀座資生堂ビル」、「シャネル銀座ビルディング」、最近だと「銀座プレイス」、「GINZA SIX」、「東急プラザ銀座」などは、高さが56mに統一されている。(「東急プラザ銀座」は工作物をいれて66m)
銀座の街を歩くと、建物の高さがある程度統一されていることがわかるが、それには銀座独自のルールが影響しているのだ。そんなところからも街の移り変わりを知ることができるかもしれない。
近年では、高級ブランドショップだけでなく、ファストファッションブランドも増え、インバウンドの拡大によって、海外からの観光客を対象とした免税店なども見かけるようになってきた。
時代の移り変わりに柔軟に対応し、いつの時代も独自のカラーを生み出し、発信し続ける銀座。古くから愛され続ける老舗と、新しい風を吹かせる新進の店舗。これらの店舗が化学反応を起こし、これからも多くの人々の憧れの街として”銀座ブランド”を守っていくだろう。